昨日深夜、、、、マレーシア食い倒れの旅‥ではなくクアラルンプール出張のうまかもん列伝の続編を書いたのですが、登録ミスで全部消えてしまいました。チョコレートメーカーの経営者Cさんや前述Bさんごファミリーとの楽しい台湾料理店での出来事、食べ物のナショナリズムについて我が祖母の柔軟性から韓国の友人たちや我が日本の親友の保守的な味の好みに至る考察でしたが残念です。私のモバイルのキーボードの具合が悪く、帰国後改めて書き直しましょう(涙)。
私がたしか中学生のころ、英語のリーダーで、シンガポールやマレーシアについての例文がありました。
Singapore is clean and green country‥で始まる内容は、その当時の私に外国語への「少し」の興味と共に外国への強い関心を引き起こし、ぜひ外国、、もちろん例文のシンガポールやマレーシアというアジアでありながら、南国の緑にあふれたエキゾチックな町並みにわくわくする思いを強烈に与えてくれました。そういう意味では、10年前にリゾートの帰りに一晩だけ立ちよったKLへの逗留は感慨深いものがあります。その頃の地理かなんかでシンガポールやマレーシアや人種の坩堝(るつぼ)で云々という記載がありました。マレー人、インド人、中国人などが坩堝にはいったように見事に溶け合っているということを表した文であります。マレーの食事と中国の食事が合わさったニョニャなどはこの根拠となっているのでしょう。しかし、人種の坩堝‥これは欺瞞であり表面的に人種がたくさん存在し入り混じりながら暮らしているということを眺めたに過ぎません。国としても文化的な背景や食事などのことには触れず多くの民族が「融合しあっている」という建前を押したいのだと思います。しかし、私が見るかぎり、彼らは一部を除いて決して溶け合わず、食事もそれぞれのものを好み、実践しています。マレー人はムスリムで酒も豚も食さず、中国人も若干は柔軟なものの自国の食べ物で暮らし、むしろ日本や欧米の料理を好みます。さまざまな人種がそれぞれの文化的背景や自分たちのアイデンティティーを守りながらひとつの社会にいくつもの「社会」を存在させながら入り混じって存在している。今回見ると中華料理店にマレー人が働いていたり(食べには来ていない)していて、若干融合も進んでいるのかなとは感じます。
時間の関係で今回深く分析して書くことができませんが、この地より血ということについて、シンガポールを数度訪れた際にタブー的に触れてはいけない人種間の問題などを目にしたり、食べ物という生活における文化的背景の大きなルーツのひとつのファクターを見るとなるほどと毎度感心させられるものです。しかし、我が日本人は戦後、私たちの成長と共にさまざまなものがアメリカンナイズされ、生活的な文化的基盤が変化しました。良い意味ではさまざまなことが先進化しましたが、悪い意味ではわれわれのアイデンティティーが生活の基盤である食事をはじめとする習慣から崩壊してしまった、経済的発展と引き換えに、、といわざるを得ず、複雑な気分を味わいつつ、真夏の太陽に包まれた窓の外クリーンアンドグリーンカントリーKLの景色を眺めています。