先日テレビで、漫才ブームの中心にいた島田洋七氏のがばいばあちゃんのドラマを見る機会がありました。報道を見て、私の祖母も九州のばあちゃんだったので非常にに関心がありました。
がばいばあちゃんとは、佐賀の方言ですごいばあちゃんという意味とのこと。そういう意味では私のおばあちゃんも凄いおばあちゃんでした。
私の祖母というよりおばあちゃんは二年前にもう亡くなってしまいましたが、入院するまでは何でも食べるし、お酒も飲むし、体も丈夫だし、よく動くし(動きも速く力も強い)、パチンコも強いし凄かった。八時を過ぎて帰ってこなくて妹がパチンコ屋に探しに行ったら10箱以上出して頑張っていました。よく一緒に旅行に行きました。
佐賀といえば、銀座の鬼木ンちことBARアドリア、通称銀座で一番ぼろい店!?!?の店主の鬼木君の店の急な階段を三階まで着物で一気に上がり、店のドアをノックして鬼木が出てくるまでドアを開けない、、ここは家じゃなくてBARだからさっさと中に入れ!みたいな。80になっても90になっても、食事に行けばみんなと同じだけ食べて飲んで、笑って、私をたたいて(私がぼけ防止でおばあちゃんをからかうからですが)、二次会はBARで必ずカクテルを2杯、しかもフルーツ系と自ら注文をする凄いばあちゃんでした。
そんなことを思い出しながら、私が生まれ育った旧真砂町(現在の本郷四丁目)を思い出しました。江戸城に通う旗本や小石川水戸屋敷、加賀屋敷(東大赤門)、などの大名屋敷があったエリアです。そこからちょっと行くと綱吉の別荘(今の小石川植物園)や六義園、古河庭園と続きます。江戸城守備のため街道筋(白山通りや本郷通り)には攻めてくる敵を待ちかまえるためにお寺が沢山建てられた町です。現在はビル街と化しつつありますが、当時は商売人が沢山いる町でした。本郷もかねやすまでは江戸のうち、、等と言われてちょうど江戸の都心部と郊外の境目のあたりということでしょうか、本郷を超えて白山以降はだんだん田舎になって巣鴨あたりに行くともうそこは田園風景だったようです。小石川植物園の場所で綱吉が鷹狩りしていたくらいだから。
本郷には長屋もありました(私の生家の裏手に五分も歩くと樋口一葉が住んだ長屋、毎日使った井戸、彼女が通った質屋の蔵が今でもあります)。学校のエリアは今の春日駅のある白山通りから、春日町の交差点を上って本郷三丁目のあたりから本郷通りをずっと行って台町から言問通りから白山通りまでのエリア。友達は何々屋のせがれ、何々屋の娘、みたいなのばっかりでした。今付き合っている連中も、靴屋のせがれ、寿司屋のせがれ、フグ屋のせがれ、出物屋のせがれ、工務店のせがれ、下宿屋のせがれ、旅館(修学旅行!)のせがれ、縫い屋のせがれ、ガラス屋のせがれ、大工のせがれ、、私も印刷屋のせがれ。小学生から中学生にかけては、ロック歌手のポスター、エッチな雑誌のカラーページ、映画のポスターなんかを印刷すると友達が見に来たりもらいに来たりしていました(なんとスターウオーズの第一作のポスター、、なんと手書きイラスト!をうちの工場で印刷していました。ほとんど関心無く、その後数ヶ月して第一作が公開!映画を見たら凄く面白く凄い特撮!とっておけばよかった!万が一今あったらプレミア物でした)。
毎日裏の公園で缶蹴り、野球、戦争ごっこ、木登り、土団子作り。エリート層の子女は文京区に集中する国立の小中学校に行ったり、幼稚園から一貫の学校に行ったりする人も多かったと思います。ちょうど私が小学生の頃マンションができはじめて、そういうことでサラリーマンのせがれは少数派でしたが、多分あのころ本郷のマンションは今の一般的なマンションよりずっとグレード的に良かったからでしたから、サラリーマンは少し上の層の人たちだったと思いますが、そういう家庭の子はなかなか私が通った区立の学校に行かない子が多かったかもしれません。
私は父の印刷会社の工場がある建物の三階(その当時は鉄骨の三階建てのビルはなかなかのものでした)に住んでいましたが、隣は果物屋さん、もう一つ隣がパン屋さん。果物屋さんのおばちゃんはモモおばちゃん、ついでにおじさんはモモおじちゃん、パン屋さんのおばちゃんはパンおばちゃんじゃなくて愛すおばちゃん、ついでにおじさんはアイスおじちゃん。モモとアイスですから、私がその店で一番食べたいものが名前になったんだと思います。勝手に上がり込んでご飯を食べて昼寝したりしていました。果物屋さんで扱っていた缶詰のマグロのフレークが大好物。これがあればご飯を沢山食べていたとか。今の文京区じゃ考えられない世界がそこにはありました。
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