残念ながら、私の会社のスタッフに明らかなマイナスのスパイラルに陥っている人がいます。
すぐにやらずに後にやる、だめだと思って取り組むからうまくいかない、自分の作業を優先して他人を投げやって結果的に自分が苦しむ、先に手を打って対応すればよいのに後にするから後が無くなった時に倍になって波が押し寄せる、あるいは結局無かったことのようにそのまま未着手で残る…結果苦しくなる、立場も悪くなる、怒られたことから手をつける、信頼を失う…もちろん気が付くための指導をするのが私の役割であり責務であります。しかし、その手のタイプは心がかたくなに固まっているのでなかなか説明しても理解できない、人の意見にシャッターを閉めているので頭で理屈は理解できても心が受け入れないから同じことを繰り返してしまいます。
実は、若き頃、加藤先生からご指導頂いたアランの言葉においてすでに全て解決しているはずの問題なのですが、これがなかなか理解できない人がいます。竹内日祥上人がおっしゃるところの思想がないから、分離の思考で、言われていることと自分の今までのやり方や思考を、あたかも他人事のように分けて考えてしまう。結果無責任になって…ということなのですが、私自身の指導がうまく徹底できないという私の大きな2005年の課題です。押しつけではなく、いかに理解し自覚し気が付いてもらえるのか、、、修練は続きます。
アラン曰く、「人は発する叫びで生きる(こうありたいと口に出していることで行動がそれに伴い環境も整い、結果実現していく)」「山は逃げていかないがその四肢でよじ登らなければならない(目標は逃げていかないが目標を達成するためには一生懸命その目標という山によじ登る必要がある)」という二つの言葉は私が起業する際のモチベーションを高め、それを基準に行動判断してきたことを思い出します。加藤先生がCIを導入する企業の社員さんに常々おっしゃっていた「CAN発想のすすめ(だって、どうせの禁止)」も、これがもたらす大きな効果をもっとビジネスパーソンは知らねばならないと思います。
私は、常々この話をクライアントのCI導入の際に言い続けてきました。もちろん多くは理解を得て、それをモチベーションにして頂くことができたクライアントもありました。ところが灯台もと暗し…自分自身の指導力不足と不甲斐なさを温泉に入りながら考えるこの正月。
日本の教育の問題(知識偏向、平等でない平等、ゆとりをなくすゆとり教育…)がいろいろ取り上げられ、端から見て学校や親が権利にばかり敏感で責務を果たさない、そして自分に関係ないことには一切無関心を決め込む自己都合ばかりの身勝手なガキをせっせと作り上げているとあくまでも個人的に感じたりします。サラリーマン的利己主義の先生に人を育てられるのか等と自身の高校時代の自分の体験(率直に言えば中学時代の本田先生と都立高校の先生と呼ばれる教師という職業の人々との大きなギャップ!)から考えたりすることもあります。青年会議所でも様々なシンポジウムや提言をしてきましたが、やはりここで考えなければいけないのは、教育とは、教えるだけではなく、教え育てることという原点です。私の中学時代の恩師の故本田先生はその著書「教えること、育てること」にそのことを一生懸命お書きになっていました。若い頃はなるほどさすが本田先生は他の先生と角度も大きさも全然違って(他の先生方すみません)偉いなあ、凄いなあと思っても具体的に魂において理解するには至りませんでしたが、今こうして直面するに当たり、知識や仕事のやり方を教えるだけでなく、学校で教えてくれなかった分別や責任という言葉の本質と各人の果たすべき役割(やらなければいけないという受け身のことではなく、自分の活躍が世の中に少しでも貢献する役割)を感じながら夢を持って働くことができるビジネスパーソンとして育てることの大切さと自分のリーダーとしての不徹底を痛感する2004年でした。私はそれを恥じ、我々のような中小企業は、ちょこちょこしたテクニックを教えるよりも、人を育てることが一番大事なことであることを再度認識しなければなりません。
ちっぽけな存在の自分が世の中に何をもって貢献できるか、というテーマはあらゆるレベルのあらゆる存在(総理大臣からフリーターのアルバイトまで)においても実感できるし、実感することで仕事の質が変わることなのですが、私はそれを一人でも多くの後進後輩に語り続けていきたいと、そしてそれが単なる説教となり雑音とならないよう気づきを与えていかねばならないと考えます。
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