京都の東寺に久しぶりに行きました。
言わずとしれた真言宗の総本山ですが、そこにこんな書き物がありました。
■十界
・如来
自らも悟り、また他をも悟らせつつあるもの。自他平等の状態。
・菩薩
他と共に悟りを得ようとして願をおこし、修行しているもの。初めて自己を超えた状態。生活者。
・声聞
教えを聞くことによって真理を学び取ろうとしている状態。学生。
・天
すぐれた楽を受けるが、なお苦を免れない。求めることは全て満たされた人間の最高の状態。しかしそこにもなお苦がつきまとう。
・人間
堕落することも出来るし悟ることも出来る。そう言う間的存在。地獄と仏の間、人と人の間、生と死の間。
・阿修羅
嫉妬心が強く、常に不安がつきまとい戦いばかりやっている状態。
・畜生
互いに他を餌食として成長し、自分のことしか見えない状態。
・餓鬼
飲食が得られないために苦のやむ時がない。欲求不満の状態。
・地獄
極苦処ともいう。生きていること全てが悪であるという状態。
不勉強で恐縮ですが、これって真言宗だけでなく日本仏教のおしえとも思うのですが、どなたかおわかりの人個人的に教えてください。
(また逆に宗教的な論争をする気もないのでそれは勘弁してください)
私は真言宗の信者ではありませんが、すぐれた先達は現代に生きる私たちにいろんな事を教えてくれます。
私含めてこの十界を見ると自分は人間もしくはその上にあると思う(あるいはそう思いたい)ものですが、果たしてどうでしょう。時として阿修羅であったり時として畜生の状態であったり(実際に人肉は口にしないにしても)することがあるように思います。あ、ここでいう生活者とか学生というのはマーケティング的な属性ではありませんから、解釈についてはいろんな本を調べて個別に勉強しましょう。
昨今話題となった金儲けにすぐれて自己利益のみの追求をしすぎて(自分のことだけを考えて他を餌食として…)大きな社会問題を起こしたりする理念なき経営者たち(会社は社会に貢献することを通じて経済活動するモノである。経済とは経世済民の略であることからも彼らの罪悪は法の網をくぐったから白引っかかったから黒という以前の問題で明らかである)は果たしてどこに存在するか。また、人間誰でも苦しくなると餓鬼や地獄の状態に陥ってしまうこともあることは容易に理解できます。恐いですね。
一方で、真から素晴らしい人も沢山いらっしゃって,何故ここまでできるのだろうというくらい人に勇気を与える人、立派な理念の実践を通じて社会に貢献し経済活動で成功を収めている経営者、利他の精神で生きつつ自らも成果をお出しになられる人も沢山いらっしゃいます。私たち人間は人間との出会いによってのみ磨かれるというのは経営人間学講座の竹内日祥上人のお言葉ですが、私たちはそのような人々から様々な教えを頂き影響を受けながら、到達すべき志の場所まで努力精進していかねばならないのですが、まさにその通りではないかと思います。
何かあった時、これを尺度に自戒しつつ少しでも高い境地で生きていける自分を目指していきたいと、改めて考えさせて頂く良い機会を頂戴しました。
若い人にはどんどん気がついて頂くことでどんどん学び進化して頂きたいと考えます。
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